備忘録84 「チェルノブイリ原発事故の現地視察」

84.-2012.8.19 「チェルノブイリ原発事故の現地視察」 

 チェルノブイリ原発事故から26年後の状況を見るため、8月5~12日にベラルーシとウクライナを訪問しました。この視察は、産総研フェローの中西先生の発案で、福井県立大学の岡先生が企画をしてくださいました。私と同僚の松田先生、伊達市選任放射線アドバイザーの半谷さん、朝日新聞の高橋さんが加わり6人のメンバーで出かけました。短期間の視察であり、見聞できたことは限られます。また、他のメンバーからより定量的な検討結果が発表されると思いますので、ここでは私は概要と感想を記載するに留めます。

 8月5日朝、オーストリア航空で成田を発ち、ウィーンを経由して同日23時過ぎにベラルーシのミンスクに到着しました。翌朝に見たミンスクの印象は、広い道と大きな建物が整然と立ち並ぶ街ということで、後で訪問することになるウクライナのキエフでは道路に広告看板が立ち並んでいたのと対照的でした。 

 6日は午後からMinistry of Emergency Situations of the Republic of BelarusでJacov E. Kenigsberg氏らから話を伺いました(Photo 1)。事故はソ連の時代であり、科学者は秘密保持誓約書にサインしてから情報に接することができたこと。当初、原爆事故と同様に汚染は円形状だと想定して半径30 km圏を強制移住区域に設定したこと。1989年に初めて汚染地図が公開され、ようやく汚染レベルによる移住が始まった。など、当初から関わった経験談を聞くことができました(日本側の質問に対して、Jacov氏は言いたいことがたくさんある様子で、通訳は質問に関係するところだけをロシア語から日本語に通訳するので精一杯という感じだったのは、残念)。汚染レベルによる早期の避難がなされなかったというチェルノブイリの失敗経験が、福島の事故では全く活かされなかったわけです。実際、30 km圏内でもほとんど汚染がない場所もあり、他方、200 kmも離れたホメリ市の近くでも高い汚染が見つかっています。 

 法律により汚染レベルによって移住の権利が与えられ、集落(セツルメント)全体がまとまって移住したのですが、国が住宅、学校、病院、公園などの整備を全て行ったことは、共産主義国だったから容易だったのかもしれないと感じました。食品の規制については、厳しすぎても地域の農業の復興につながらないという見解が示されました。

 翌7日はマイクロバスでミンスクからウクライナのキエフまで、直線距離でも500 kmはあるところを移動するという大変な強行軍でした。ベラルーシの農村地帯は、地平線まで見渡す限りが牧草や穀物畑という景色です(Photo 2)。しかし、農家の家々は大変質素に見えました。途中でブラギンスキー郡役場に紹介してもらった集団農場の労働者から自営農場になったという農家を訪問しました。ベラルーシとウクライナ国境での手続きにはかなりの時間がかかりましたが、我々はバスの中で待つだけでした。国境を越えてバスを乗り換えてキエフを目指します。夜10時過ぎにようやくホテルに到着。ウクライナの街は広告サインに満ちあふれ、ベラルーシとは国情が全く違うのに驚かされました。

 8日には、チェルノブイリ原発を見学しました(今ではガイドの付く見学コースが提供されています)。検問所を通過して30 km圏内に入り、中の施設や記念碑、廃墟となった街などを散策(Photo 3)。環境放射線量はそれほど高くありません。多くの場所はγ線モニターで1 μSv/hr以下でしたが、プレピャチの街(チェルノブイリ原発の労働者が住んでいた街、今は廃墟)では1~3 μSv/hr、ガイドさんが示してくれるホットスポットの土壌や舗装に近づけると7 μSv/hr程度まであがりました。4号炉に最も近づいたのは約400m程度までで(5~8 μSv/hr)、古くなってきている石棺が間近です(Photo 4)。近くでは新しい覆いの建設工事が始まっていました。ここで働く人(3000人程度)は、15日働き、15日休む(30 km圏外に出る)というシフト制だそうです。なお、火事によって汚染した家屋が燃えたり、森林火災を起こしたりして放射性物質が拡散することを非常に恐れている様子で、家屋を埋めたという場所がありました(Photo 5)。
    

 

 

 

 

 

 

 9日午前にはNational Institute for Strategic Studiesを訪問しました。立派な会議室が準備されていて、日本側から岡先生と中西先生から発表、次いで、ウクライナ側からOleg Nasvit氏(食品の基準の決め方)、Borys Prister氏(土壌からの放射能の減衰、植物への移行:除染早くやらないと効果が少ない。)、Sergii Mirnyi氏(福島はローカルな事故に過ぎず。避難しすぎという傾向があった。情報汚染の方が問題)の発表がありました(Photo 6)。

 日本側が対策の有効性(費用効果)について突っ込んだ質問をしても、なかなか具体的な回答は得にくい感じでした。国の方針でできるだけ移住や除染を行った。そして、放射線対応というより、人々のストレス対策という側面があったという点などが目立った発言です。

 この日の午後はチェルノブイリ博物館を見学しました。博物館のガイドさんから我々に同行してもらっている通訳を通して日本語の説明を聞きました。展示の説明はロシア語のみがほとんどで、外国からの訪問者を期待しているという雰囲気はあまりありません。

 10日は午前にState Agency of Ukraine on Exclusion Zone Managementを訪問し、ウクライナ側の出席者Leonid J. Tabachnyi氏とDmytro Bobro氏に対して、主に、費用対効果について岡先生から質問をしました(Photo 7)。ソ連時代はウクライナで約460の市町村が除染対象、できるだけ多くを除染しようとした。費用効果は良くなかった。軍人が関わったこともあり、費用の算出が難しい。精神的負担を減らすため除染したという側面があるなどの発言がありました。汚染物は粘土で地下水に影響の出ないようにして埋めたということです。

 午後には、放射線小児科医師として長く事故の健康影響にかかわってきたStepanova Yevgeniya医師を訪問して、人影響について話を伺いました(Photo 8)。甲状腺がんの他に、子どもが一般的にかかる病気の頻度を増やしたことは確かですが、放射性の影響だけとは言えません。移住の際のストレス、不安定な生活、食生活の崩壊(事故後、ソ連の崩壊とウクライナのひどい経済危機があった)などの影響がありました。子どもの健康には放射線以外の原因があった、という見解が述べられました。

 11日キエフを発ち、12日に成田に帰国しました。 短い旅でしたが、かなり密度の濃い訪問ができたのは、岡先生の企画によるところが大きいと感謝しています。